時代めぐりウォーク 子どもガイド「轟の池」
轟の池
幕府を倒そうと考えていた秀は、日田代官所から追われることになってしまいました。代官所の手から逃れる中で、秀は長州の軍隊に入ります。そして、同じ考えをもつ長州の人たちと宇佐に帰ってきました。
秀たちは、日田代官所の四日市陣屋を襲い、大砲や弾薬をうばい火をつけました。続けて代官所の役人が逃げこんだ東本願寺別院にも火をつけたそうです。この火で近くの民家が七件も焼けてしまいました。
その後、秀たちは、宇佐神宮奥の院である御許山に立てこもりました。しかし、長州の軍隊に鎮圧させられました。秀は長州藩の裏切り者として斬られてしまいます。そして、「口に正義を唱え盗賊の所業せし者」として首を四日市にさらされました。
そのため現在でも秀は、四日市を中心とする宇佐地区では「御許山騒動で東別院を燃やした、とんでもない火つけ強盗」言われていますが、佐田地区では、「仲間であった長州に討たれた悲劇の志士」といわれています。秀は、代官所の人たちに見つからないようにこの池のほとりの小屋でしばらく過ごしたと言われています。この案内板には、秀が轟の池を詠んだ和歌も書いていますので、ご覧ください。