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生田門と中津市学校

南部小学校の校門であるこの「生田門」は、明治時代の廃藩置県後「中津市学校」の校門としても利用されました。もともとは、奥平中津藩家老生田家の門であり、中津の藩政時代から現代まで、風雪に耐え抜いてきた貴重な建造物です。
 この辺りは、江戸時代には“三の丸”と呼ばれ、藩主の一族や家老などの屋敷が建ち並んでいました。南部小学校の敷地は、「大手屋敷」と呼ばれた家老の生田家(1800石)の屋敷と、隣の「中の層敷」と呼ばれた奥平図書(2600石)の屋敷があった場所の一部を含んでいます。
 明治4年(1871)、福沢諭吉の建議により、「大手屋敷」に西日本有数の英学校である中津市学校が創立されました。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で有名な『学問のすゝめ』は、この市学校を創立する時に、中津の青少年に学問の重要性を説くため福沢諭吉によって書かれたもので、翌年刊行されて大ベストセラーになりました。
 市学校の組織づくりは福沢諭吉、小幡篤次郎などがかかわり、学校の規則はすべて慶應義塾の規則に従って定められ、教員は主に慶応義塾の中津出身者が派遣されました。明治6~9年には、生徒数が600名
程にもなったと言われます。 廣池千九郎の『中津歴史』に、中津の西洋風の文化・生活様式の出発点は常に市学校であったと書かれています。
 市学校が大きな転機を迎える契機となったのは西南戦争で、西南戦争とその後の経済情勢は生徒数の減少をもたらしました。また、学制の整備に伴う公立学校の充実なども加わり、市学校は徐々に衰退し、ついに
明治16年(1883)3月に閉校しまた。
 市学校閉校後、いろいろな学校として変遷を重ね、明治43年(1910)4月1日、南部小学校が開校し、以降生田門は同小学校の校門として長く利用され親しまれて来ました。