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たくさんの学び、たくさんの感動、たくさんの楽しみがある修学旅行

たくさんの学び、たくさんの感動、たくさんの楽しみがある修学旅行

 6月8日(木)・9日(金)に6年生が修学旅行に行ってきました。この3年間は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため県内での修学旅行でしたが、今年度は4年ぶりに県外(長崎県・佐賀県・熊本県)に行きました。

 6年生は修学旅行前、連日体調不良で複数の児童の欠席が続いていました。全員が参加できるかすごく心配していましたが、幸い当日は一人も欠席することなく、みんな元気に修学旅行に行くことができました。何よりそのことが一番嬉しかったです。

 以下、見学場所ごとに駆け足で様子を紹介しますので、充実した修学旅行を、みなさんも少しですが、疑似体験してみてください。

【長崎平和公園】

 最初の見学地は長崎市の平和公園でした。残念ながら、長崎は今日も雨で・・・カッパを着て傘をさしての見学になりました。毎年8月9日に平和祈念式典が行われる平和祈念像の前を通りバスガイドさんの説明を聞きながら公園内を見学しました。公園内の噴水がある石碑には、「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま飲みました。」という「あの日のある少女の手記」からの言葉が刻まれていました。平和への思いを胸に、平和公園での学びの最後に「平和の集い」を行い、6年生がこれまでの学習を通して考えた平和宣言を発表しました。

     

【1日目の昼食】

 平和公園の横のレストランで昼食です。長崎名物の皿うどんやシューマイ、から揚げなどが山盛りにありました。

   

【長崎原爆資料館】

 原爆資料館では、まず最初に1~5年生が平和を願いながら折った千羽鶴を職員の方にお渡しし、館内に飾っていただきました。館内では、どの子も真剣に展示物を見学し、原爆投下直後の長崎市の街の惨状を再現したものに触れ、原爆の破壊力や恐ろしさを感じていました。

     

【被爆体験講話】

 今回の学びのメインは、なんといっても被爆体験講話です。2歳の時に被爆した橋本富太郎さんに講話をしていただきました。貴重なお話なので、みなさんと共有したいと思い詳しくご紹介します。

「まず最初に質問します。長崎に原子爆弾を運んできた爆撃機B29は、どこを通ってきたのでしょう?実は大分県の国東半島の沖を通ってきたので、みなさんのひいじいちゃんやひいばあちゃんは、その飛行機を見た人もいるかもしれません。

 私は、1943年9月に生まれた。私の家は酒の小売と借家業を営んでいたが、1940年に酒の小売りを廃業した。廃業した理由は1931年から日本が中国と戦争を始めたので、若い男性が兵隊として戦争に行くことになり、米の生産力がガタっと落ちて、酒に回す米が無くなったからだ。1940年に日本中からお酒が無くなった。さらに、店で売る主食のお米もなくなり、少ないお米を各家庭に配るための割り当て(配給制度)が始まった。私が生まれた1943年頃は、ますます割り当てのお米の量が減ってきた。さらに、砂糖・醤油・味噌・着る物などありとあらゆるものが割り当てになった。私のおじいちゃんは、私に名前を付けるときに、「この子が大きくなったら、物が自由に売り買いできるような、お金が動く世の中で生活してほしい」という思いを込めて「太郎」に「富」の字を付けて「富太郎」という名前にした。だから、戦争がなければ私の名前は「太郎」だったはずだ。

 原子爆弾は、上空500mで爆発し熱線が飛び出した。爆心地から四㎞離れたところでもやけどした人がいた。私の家も四km離れていたが、家の中にいたからやけどしなくてすんだ。爆発したときには秒速440mの爆風が吹いた。したがって、爆心地では1㎡当たり10トンの重さの力で押しつぶされたことになる。きのこ雲の下の黒い部分は、爆風で飛ばされた建物や人間、物を運んでいた牛や馬などありとあらゆる物が吹き上げられて入っている。 

 私の父は爆心地から4kmくらい離れている長崎郵便局に勤めていたが、1945年8月9日の朝、爆心地近くの松山郵便局に行って、長崎郵便局が見える所まで戻って来たときに被爆した。爆風で自転車とともに飛ばされて竪穴式の防空壕に落ちたがケガはなかった。防空壕から出て郵便局に戻ったが、郵便局の中にいた人たちは爆風で割れたガラスを全身に浴びてケガをしていた。
 翌日から当時の郵便局の業務の1つである電話の業務を継続するため、父は電話交換士さんたちの食料の買い出しに、毎日自転車で往復8時間以上かかる場所まで爆心地を通って行った。時々B29が飛んでくるので、道すがら遺体の傍に隠れることが一日数回あった。長崎駅から先(爆心地付近)は、自転車を担いで遺体を跨ぐようにして通った。爆風で倒れた建物の下敷きになり、「助けて」と叫んだが、周りは火の海で助けに行きたくても行けずに、倒れた建物と一緒に焼け死んだ人も多かったようだ。
 8月9日、10日はケガをした人を救護することが優先されたため、亡くなった人の遺体を収容することは後回しにされていたようである。数日後に遺体の収容が始まるが、手や足を持ったら、手や足が抜けるくらい筋肉が焼けてなくなっていた。そんな遺体が何万人もあった。収容するのもたいへん。夏なので腐敗がひどく、臭いもするしウジ虫もいた。
 8月16日に近親者(学徒動員により工場で被爆した中学生)が亡くなり、死体を広場で焼いたが、骨を掴もうとしても掴めずにバラバラ砕けた。数年後に医者から聞いたが、被爆すると骨が脆くなるそうだ。

 私は、1950年4月に小学校に入学した。やけどの跡がある友達もいた。給食はパンと脱脂粉乳だけだった。硬いパンだった。でも、楽しみは給食だった。6年生の時に修学旅行で福岡に行ったが、お米は持参した。まだお米が少なく配給制度で各家庭に僅かなお米が配られるだけであり、旅館にお米は無かったので持っていくしかなかった。

 私は就職試験で、民間(企業)を4つ、官公庁を3つ受けたが、民間は全部落とされた。被爆者はいつ病気になって休むか分からないという思いがあったのかもしれない。被爆により、私の体にいろんな記録がされたのではないかと思う。

 小学校3年生 左手を怪我。回復が悪く化膿。
 中学校2年生 腎盂炎の発病。
 中学校3年生 右手首骨折 骨が脆いと注意を受ける。
 19歳の時  中学校の同級生が急性白血病で急逝
 39歳の時  高校の同級生が急性白血病で急逝
 52歳の時  (被爆50年で)大腸がん
 68歳の時  2度めの大腸がん
 74歳の時  前立腺がん
 今      甲状腺がんの観察中

 『核兵器は無くならない。』という人がいるが、本当にそうだろうか。核兵器を無くすことが我々に課せられた仕事だ。そのためには核兵器が使われると、どんなことが起こるのかということを被爆者は一生懸命お話をさせてもらっている。若いみなさん方は、これから学んで勉強して、これから何をすればいいのか進む方向を見つけてほしい。『平和は大事です。平和を守ります。』と言っても、どうやって守るのかを考えないといけない。そのための武器は兵力ではなく、考える力です。行動する力が平和を守ります。考えて行動していってください。そのためにもありとあらゆる勉強をしていってください。」

  

【長崎市内タクシー研修】

 各班に分かれて、それぞれ下調べした上で興味のある見学場所へと向かいました。眼鏡橋、グラバー園、大浦天主堂、出島、諏訪神社などを見学したようです。途中で買い物もして、全国旅行支援のクーポン券を使いました。

 

【ホテル】

 宿泊場所は、矢太楼南館です。山の中腹にあり、眺めが抜群で、夜景がとてもきれいでした。晩御飯も豪華で、カレー食べ放題、長崎ちゃんぽん鍋、ポテトサラダのクレープ包み、 グリーンサラダ、海老フライ、グリーンリーフ、タルタルソース添え、チキンフラワーの唐揚げ 一口カツ、パセリ、 煮込みハンバーグ、ミックスベジタブル、海鮮焼売の中華風あんかけ、ババロアシュークリーム、カットケーキとメニュー満載でした。

     

【佐賀県立宇宙科学館】

 2日目の午前中は宇宙科学館に行きました。宇宙港近くの小学校として宇宙の勉強は欠かせません。館内は、宇宙発見ゾーン、地球発見ゾーン、佐賀発見ゾーンの3つのゾーンがありましたが、やはり一番人気は宇宙発見ゾーンでした。子どもたちはスペースサイクリングやムーンウォークなどの体験を楽しんでいました。

     

【グリーンランド】

 最後の目的地は、子どもたちが一番楽しみにしていたグリーンランドです。なんとグリーンランドはアトラクション数は日本一です。班ごとに空中ブランコやドラゴンリバー、スーパーバイキングなどに乗り、仲間とともにグリーンランドを満喫することができました。